『木の上の軍隊』2019.05.18
先週観劇した『木の上の軍隊』
今だにもんもんと考えてるので、言葉にした方がこれは良いなと綴ってみます。
「戦後"命"の三部作」の一作品。
『母と暮せば』は残念ながら映画でしか拝見してないけれど、『父と暮せば』であんなに涙した私はこの作品も見なければ!!と強い使命感に駆られて、気がつけばチケットを購入。
上官と新兵、語る女、ヴィオラの音色、そして舞台中心にそびえ立つガジュマルの木。
お国のためにと眠りにもつかず必死に戦う上官と、腹が減って立つこともままならない頼りない新兵。
そんな構図が徐々に崩れ始める様子。これが日本の姿だったのだと感じさせられました。
ガジュマルの上からアメリカの野営地が徐々に、でも着実に広がる様子を見て、嘆く新兵と、「あぁそうだな」とどうでも良い上官。
新兵は「悲しい」、上官は「悲しくない」
「ここは一体どこなんでしょう」
「子供の頃、靴を一緒に探した道は、人を殺した場所になった。恋人と歩いた道は味方を捨てて逃げた道になった。子供の頃から見ていたこの木は、二度と見たくない木になった」
「もう僕の住んでいた島には戻れない」
この台詞は私の頭からいまだに離れません。
「だから一生懸命思い出すんです。あれがなかった景色を」
新兵が遠くを見ながら放つこの言葉を聞いて、涙が流れました。
上官のように本土の人間は、島になんの思入れもない。戦争が終わって、やがてこの島から離れる。だから「悲しくない」
けれど新兵のように島の人は、仲間を殺されただけでなく、島までもが戦争に覆い被せられる。そして、野営地ともに生きなければならない悔しさ、怒り、もどかしさ、そして「悲しい」という感情。
最終的に上官と新兵は2年間もともに生活しながら、まったく理解しあうことができなかった。これがまさしく本土と島側の人間の構図なのですね。そして、私もどんなにこの状況にもどかしさや意見を持っていても、結局は「悲しくない」本土側の人間でしかない。
最後、暗転後に轟いたオスプレイの飛行音。あまりの大きさに劇場が揺れ、恐ろしさで劇場を飛び出したくなるほどでした。
この作品を観た翌日、自衛隊の大砲訓練が家のすぐそこで行われていました。
日曜の朝、何かあったの!?と本気で飛び起きるほどの大きな音と恐ろしさ。すぐそこを飛ぶヘリコプター。不安を煽る音は怖くて仕方なかったです。
ただこの時、あぁこれかと。
もちろん比べるつもりもないし、私のこの体験はたった1日のものであり、比べることなんてできません。
けれど、劇場で聞いたような飛行音、いつ事故が起こるかもわからない不安な毎日。幸せなはずの日常が脅かされる。それは戦争と同じなのではないか。
まだ終わっていないのだ。
観劇と翌日のこの出来事を含めて、そう私は感じました。
この作品を観て、本土側の人間である私は一体何を思えば良いのか。ただ一つ、彼らのことを考えて思いを馳せ、少しでも「悲しい」と思えたこと。それがこの作品が持つ力なのだと思います。
『木の上の軍隊』という作品。そして井上ひさしさんの思いがどうかこの先も語り継がれることを願って。